クレオパトラ

 ルビコン川を渡り、内乱へと突入するのが、ユリウス・カエサル ルビコン以後[上]である。
 よく欧米の表現で思い切ったことをする例えでルビコン川が出てくるのは、この故事からきている。
 ルビコンを渡った以後のカエサルの行動は、粗暴ではなく理性的であり、暴君や独裁者と言う言葉をつけるのが不適当ではないかと思うくらいである。
 こうした理性的な行動の一つ一つが、カエサルを単なる独裁者として評価するのではなく、先見性のある政治家として評価されるのだろう。
 
 カエサルは、ガリア人との戦争で、その軍事的な才能を披露したが、あくまで蛮族との戦いであった。そのため、それ以外の要素が大きいので、必ずしもカエサルの軍事的才能を測ることができなかったともいえる。しかしながら、ファルサルスの戦いは、ローマ人同士の戦いである。そして、ポンペイウスの軍事的才能は、疑いのないものである。さらには、カエサル側が人数的には不利である。そうした点を乗り越えて勝利したわけだから、カエサルの軍事的な能力の高さは、ファルサルスの戦いで、本当の意味で量ることができたと言えるのではないだろうか。

 ただ、カエサルの本当の魅力は、軍事的な才能にはないように思う。どちらかというと、政治や外交などの能力であり、多くの人を許し取り込む、人心掌握術の方にあるように思う。
 勝手な感想ながら、このカエサルの人心掌握術は、人間全体に対する愛情というかそういうものを源泉としているように感じる。裏切られる場面に遭遇しようとも、怒らずに許す。許すだけでなく活用する。ただ、そうした感覚はカエサルを孤独にしているのではないかと思う。争いは同じレベルの間でしか生じないとよく言われる。ということは、カエサルは他の人よりもレベルの高いところにいるから争うことをしないのではないだろうか。それは、カエサルが偉大な人物であると思うと同時に、同じレベルの存在がいない孤独な存在であるように思えるのである。
 
 上の絵は、フランスの画家ジャン=レオン・ジェロームによるクレオパトラとカエサルある。ところで、カエサルとクレオパトラとの関係を知ったとき少なからず驚いた。というのも、わたしの無知が原因だけれど、この二人は時代も地域もバラバラの人物だと勘違いしていたからだ。